コラム
「自由には責任が伴う」ってどういうこと?
「自由には責任が伴う」という言葉があります。
成長過程にある子どもに向けて、大人が使うことが多い言葉のように思います。私自身、中学以降、自由な校風の学校に通っていましたが、何度か学校でこの言葉を耳にしたことがあります。
一見すると、もっともな言葉です。
自分で選択したことの結果を人のせいにしないこと。
自分の行動を振り返ること。
衝動的に行動するのではなく、いったん踏みとどまること。
そうした姿勢は、子どもの成長過程においてもちろん大切です。
子ども自身がこの言葉を、「人のせいにしない」「自分で選んだことの結果を引き受ける」という意味で受け止め、慎重にまたは吟味して行動を選択するようになることもあります。
その意味では、この言葉に、自己抑制や内省を促す面があることは否定しません。
でも、脅しのように聞こえる
それでもなお、私自身はこの言葉を聞くたびに、どこか脅しのように感じ、もやもやしていました。
「自由にしてよいが、はめを外してはいけない」
「どこまで許されるかは自分で察しなさい」
「自分で選んだのだから、困ったことになっても自分で引き受けなさい」
そんなふうに聞こえていたのだと思います。
自由は条件付きで与えられるものなのだ。
自由を与えられたからといって、好きにしてよいわけではないのだ。
自由を与えられたからには、自分の責任で周囲に配慮し、期待に応えなければならないのだ。
そう言われているように感じていました。
大人になった今、考えてみても、この言葉は、子どもに対して、自由についても、責任についても、誤解を与える可能性があるのではないかと思います。
自由については、「自由とは、大人や学校から条件付きで許されるものだ」という誤解です。
責任については、「自分で選んだ以上、困った結果も一人で背負わなければならない」という誤解です。
では、この言葉は、結局、何を言おうとしているのでしょうか。
「自由」も「責任」も、法律の世界でも使われる言葉です。そこで、少し立ち止まって、法的な意味や位置づけも踏まえながら考えてみたいと思います。
「自由」とは何か
まず確認したいのは、自由は、大人や学校から許可されて初めて与えられるものではない、ということです。
法の世界において、「自由」は何より重要な意味を持つ言葉です。憲法上は、個人が国家権力から不当に干渉されず、自分の考えや生き方、表現、行動を尊重されるという意味で、基本的人権の中核にあるものです。
日本国憲法は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」(第11条、第97条)としています。また、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について、公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする(第13条)と定めています。
もちろん、憲法上の自由は、主として国家権力との関係で保障されるものです。ただ、その根底には、一人ひとりの人格や自己決定を尊重するという考え方があります。
つまり、自由は、大人や学校が恩恵として与えるものではありません。子どもが「責任あるふるまい」をしたときに初めて認められるものでもありません。まず、権利として尊重されるものです。
もちろん、自由は無制限ではありません。他者の権利や自由、安全と衝突する場面では、一定の調整が必要になります。憲法も、自由や権利について、これを濫用してはならず、公共の福祉のために利用する責任を負う(第12条)と定めています。
ただし、ここで大切なのは順番です。
「責任を取れるなら自由を認める」のではありません。
まず、自由が権利として尊重される。
そのうえで、その自由が他者の権利や自由、安全とぶつかるときに、どのように調整するかを考える。
この順番が大切です。
子どもについても同じです。子どもも一人の人間として、自由を含む権利を持っています。
子どもの権利条約、正式には「児童の権利に関する条約」も、第12条で意見を表明する権利、第13条で表現の自由、第15条で結社・集会の自由を認めています。これらは、子どもの自由が、大人からの「許可」ではなく、子ども自身の「権利」であることを示しています。
「責任」とは何か
次に、「責任」です。
日常会話では、「責任」という言葉は、とても広く使われます。
自分の行動を振り返ること。
人のせいにしないこと。
約束を守ること。
役割を果たすこと。
失敗したときに謝ること。
これらも、広い意味では「責任ある態度」と呼ばれることがあります。
しかし、法律上の責任は、もっと限定された意味で使われます。たとえば、契約上の義務に違反した場合の責任や、他人の権利・利益を侵害して損害を与えた場合の責任、犯罪として法律に定められた行為をした場合の責任などです。
つまり、法的責任は、単に「誰かに迷惑をかけた」「不快にさせた」「期待されたふるまいをしなかった」というだけで発生するものではありません。
さらに、法は、子どもを大人と同じ責任主体として扱ってはいません。
民法上、未成年者が契約などの法律行為をするには、原則として法定代理人の同意が必要です。不法行為についても、未成年者が自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかった場合には、本人は賠償責任を負いません。この場合には、監督義務者である親などの責任が問題になります。刑法上も、14歳に満たない者の行為は罰しないとされています。
これは、子どもは何をしてもよい、という意味ではありません。子どもにも、自分の行動が他者に与える影響を学んでいくことは必要です。ただし、それは、子どもに大人と同じ意味での責任を負わせることではありません。
この点をあいまいにしたまま、子どもに向けて「自由には責任が伴う」と言うと、子どもは「自由にした結果として何か困ったことが起きたら、自分が重い責任を背負わなければならない」と理解して、萎縮してしまうかもしれません。
自由を行使することと、法的責任を負うこととの間には、大きな隔たりがあります。
子どもが自由を行使することに、当然に責任が伴うかのように表現するのは、言いすぎだと思います。責任ある「態度」を法的な「責任」と混同させてはなりません。
自由と自由がぶつかったときに、学ぶべきこと
自分に自由があるように、他者にも自由があります。
そのため、自分の行動や表現が、他者の安心や自由とぶつかることもあります。
反対に、他者の行動が、自分の安心や自由に影響することもあります。
では、自由と自由がぶつかったとき、子どもは何を学ぶべきなのでしょうか。
自由と自由がぶつかった。
誰かが不快に感じた、または、困っている。
そのような場面でまず必要なのは、何が起きたのかを理解し、どうすれば互いに安心して過ごせるのかを考えることです。
「自由には責任が伴う」という言葉を安易に使ってしまうと、本来は対話や調整の場面であるはずのところに、いきなり責任追及の言葉を持ち込んでしまうことになります。そうすると、「誰が悪いのか」「誰が責任を取るのか」にフォーカスされてしまい、子どもたちが学ぶべき、大切な調整のステップが飛んでしまうことになりかねません。
自分を知り、相手を知る力
自由と自由がぶつかったときに必要なのは、何が起きたのかを知り、対話や調整をすることだとしても、その前提として「相手にも自由がある」と理解する力が子どもに備わっていることが必要です。
しかし、こうした力は、最初から子どもに備わっているものではありません。
子どもは、幼児期から、少しずつ「相手にも自分とは違う気持ちや考えがある」ことを理解していきます。さらに学童期になると、自分の立場と相手の立場を行き来して考えたり、自由、権利、ルール、公平といった抽象的な概念を理解する力が徐々に育っていきます。もっとも、発達には個人差があり、家庭や文化的背景、学校での経験によっても大きく異なります。
ここで、大切なことは、他者理解のためには、まず自己理解が必要であるということです。
自分のしんどさや願いを知らないまま、「相手のことを考えなさい」と言われると、子どもによっては、自分を抑え込むことになってしまいます。
自己理解の力をつけるためには、周囲の大人から自分の気持ちを受け止めてもらい、大切にされる経験が必要です。
自分は何を感じているのか。
何に困っているのか。
何を大切にしたいのか。
相手は何を感じているのか。
何に困っているのか。
何を大切にしているのか。
そこを知ろうとすること。
そのうえで、どう伝えるか、どう話し合うか、どう協力するか、どう調整するか、どうすれば一緒に安心して過ごせるかを考えること。
子どもたちにまず必要なのは、このような学びの積み重ねであり、これを周囲の大人が丁寧に支えていく必要があります。
ルールは自由を支えるためにある
話し合い、調整する過程では、ルールを定めることもあるでしょう。
安心や安全を守るために、あらかじめ約束ごとを明確にしておくことは大切です。
自由と自由がぶつかりやすい場面では、ルールを作ることで、互いに安心して過ごしやすくなることもあります。
ただし、ルールにもいろいろな性質があります。
法律のように、違反した場合に法的な効果が予定されているものもあります。
学校や団体の内部規則のように、一定の教育的対応や内部的な措置が予定されるものもあります。
守ることが望ましい努力義務のようなものもあれば、紳士規程のように、直ちに法的な責任や制裁を予定しないものもあります。
生活上の約束や、教育的なガイドラインにとどまるものもあります。
ルールに反したからといって、直ちに責任が発生するわけではありません。
ルールに問題があるという場合もあるでしょう。
ルールの周知が十分でなかったという場合もあるでしょう。
ルール違反があったときにも、まず考えるべきなのは、そのルールが何のためのものか、その違反によって何が起きたのか、何が原因か、どのような調整や修復が必要なのか、です。
ここでも、いきなり「責任を取りなさい」と迫るのではなく、調整結果として定めたルールについての理解を深めながら、対話、調整、修復の過程をたどることが大切です。
立ち止まる力も、成長の中で育つ
自由と自由の調整のために必要なのは、理解する力だけではありません。
自分の気持ちが強く動いたときに、いったん立ち止まること。
衝動的に行動する前に、少し待つこと。
相手の言葉を聞くこと。
別の方法を考えてみること。
こうした自己制御や衝動制御の力も、子どもが成長の中で少しずつ身につけていくものです。大人から見れば、「少し考えればわかるはず」「我慢すればよいだけ」と思えることでも、子どもにとっては、まだ発達の途中にある力を求められている場合があります。
だからこそ、子どもにいきなり「自由には責任が伴う」と言って、自分で制御することを求めるのではなく、制御できる力が育つように辛抱強く支えることが必要です。
落ち着くための時間をつくること。
気持ちを言葉にする手助けをすること。
選択肢を一緒に整理すること。
やり直せる機会をつくること。
そうした支えの中で、子どもは少しずつ、自分の自由をどう使うか、他者の自由とどう調整するかを学んでいくのだと思います。
子どもの自由を支える責任は、大人の側にある
そして、そのような学びを支える責任は、まず大人の側にあります。
子どもの自由を安心して行使できるようにすること。
自己理解と他者理解を育てること。
対話や調整の場をつくること。
必要なときにはルールを明確にすること。
失敗したときには、責めるのではなく、修復と学び直しを支えること。
これらは、子どもではなく、学校、家庭、地域社会など、大人たちが引き受けるべき責任です。
そう考えると、子どもに対して「自由には責任が伴う」と言うよりも、別の言葉で伝えた方がよいのでしょう。
例えば・・・
自由は、あなたが持っている大切な権利です。
そして、あなたに自由があるように、ほかの人にも自由があります。
自由と自由がぶつかることもあります。
そのときは、人のせいにして終わりにするのでも、自分だけで抱え込むのでもなく、何が起きたのかを一緒に考えましょう。
自分のことを知り、相手のことも知ろうとしながら、話し合い、協力し、必要ならルールを作り、調整していきましょう。
その力を育てることを、大人が支えていきます。
なかなか一言で伝えられるものではありませんね。
そして、大人たちこそが、このような認識・理解ができているか、自問自答すべきことであるようにも思います。
自由は、責任と引き換えに与えられるものではない。
自由は、まず権利として尊重されるものである。
そして、自由と自由がぶつかるときにまず必要なのは、相互理解、対話、協力、調整、修復の経験である。
その学びを支える責任は、子どもではなく、私たち大人の側にある。
子どもに向けて「自由には責任が伴う」と言う前に、私たち大人の側が問われています。
子どもの自由を、責任という言葉で縛っていないか。
子どもが安心して自由を行使し、ぶつかり、考え、話し合い、やり直す経験を支えられているか。
そして、私たち大人自身が、確かな自己理解、他者理解のもと、そのような対話と調整を実践できているか。
「自由には責任が伴う」――この言葉は、大人にこそ向けられた言葉のように思えてきませんか。