コラム

脱「子どものくせに」社会へ

2024.12.24

執筆者 弁護士 古家野 晶子

「女のくせに」の次に考えたいこと

かつて、日本社会では「女のくせに」という言葉が、当たり前のように使われていました。

「女だから」という理由で、学ぶこと、働くこと、意見を言うこと、社会の意思決定に参加することが軽んじられてきた時代は、決して遠い過去ではありません。NHKの朝ドラ『虎に翼』でも、女性が法曹の世界に進もうとするだけで、周囲から冷ややかな目を向けられる場面が印象的に描かれていました。

もちろん、今も男女平等が完全に実現したとはいえません。それでも、少なくとも「女のくせに」と公然と言うことは、社会的に許されにくくなりました。

もっとも、「〇〇のくせに」という言葉は女性だけに向けられるものではありません。「男のくせに泣くな」「男なんだから弱音を吐くな」といった言葉も、性別によって人のあり方を決めつけるものです。

ただ、女性については、教育、仕事、政治参加、家族の中での地位など、そもそもの権利保障が長く遅れてきました。だからこそ、「女のくせに」という言葉には、単なる性別役割の押しつけだけでなく、女性の声や社会参加を実際に制限してきた歴史が重なっています。

女性については、長い時間をかけて法制度が整えられ、社会の意識も少しずつ変わってきましたが、相手を「自分より分からない存在」とみなし、本人以外の強い立場にある側の判断を優先する構造そのものは、私たちの社会のあちこちに残っているように思います。

では、「女のくせに」の次に、私たちが手放すべきものは何でしょうか。

私は、その筆頭が「子どものくせに」ではないかと思っています。

「子どものくせに」は、個人の尊厳にかかわる問題

最近は「子どものくせに、分かったようなことを言うな」と、はっきり言われる場面は減っているかもしれません。

しかし、

 「子どもなんだから分からなくて当然」
 「子どものことは大人が決めて当然」
 「まだ子どもだから、大人の言うことを聞けばよい」

という発想は、まだ社会のあちこちに残っているように感じます。私自身も、よく言ってしまいそうになります。

問題の本質は、「子どものくせに」という言葉そのものではありません。

相手を一段下に置いて、上からものを言うこと。相手の声を十分に聴かずに、こちらが正しいと決めてしまうこと。対話を通じて合意をつくるのではなく、強い立場の人が決め、弱い立場の人が従うことです。

そう考えると、「女のくせに」と「子どものくせに」は、どこか似ています。

女性は「政治や社会のことは分からない」と、子どもは「未熟だから」と、その本人の声よりも、周囲の強い立場にある人の判断を優先されてきました。

しかし、子どもは意思のない存在ではありません。乳児であっても、泣き声や表情、視線、身ぶりで、快・不快や欲求を示します。保育の現場では、そうした小さなサインを受け取り、それに応答することが大切にされてきました。

子どもは発達の途中にあります。しかし、発達の途中にあることと、意思がないことは全く別です。大人がすべきことは、子どもの意思を「ないもの」として扱うことではなく、その年齢や発達に応じた方法で声を聴き、必要な支援をしながら一緒に考えることなのだと思います。

法律の世界でも、子どもは単に「保護されるだけの存在」ではありません。1989年に国連で採択された子どもの権利条約は、子どもを権利の主体として位置づけています。日本も1994年に批准しました。条約第12条は、子どもが自分に影響を及ぼすすべての事項について意見を表明する権利を保障しています。

日本でも、2022年にこども基本法が成立しました。同法は、子どもが年齢や発達の程度に応じて自分に関係することについて意見を表明する機会を確保することや、その意見を尊重することを基本理念としています。さらに、国や自治体がこども施策を策定・実施・評価するときには、子どもや若者の意見を反映するために必要な措置を講じることが義務づけられています。

つまり、「大人が子どものためによいと思うことを決めてあげる」というだけでは、現在の子どもの権利の考え方としては十分ではないのです。

さらに、子どもを取り巻く現在の状況は、深刻です。小中高生の自殺者数は近年、高い水準で推移しています。厚生労働省も、子ども・若者の自殺について「極めて深刻な状況」として、政府全体で対策を強化しています。

もちろん、子どもの自殺にはさまざまな要因があり、「子どもの声が聴かれていないから自殺が増えている」と単純に結びつけることはできません。しかし、これほど深刻な状況にある以上、私たちは子どもが生きている社会のあり方そのものを見直す必要があるように思います。

 「困っている」と言えるか。
 「嫌だ」と言えるか。
 「こうしたい」と言えるか。
 そして、言ったときに、誰かが真剣に聴いてくれるか。

子どもが「自分の声には意味がある」「自分は一人の人間として尊重されている」と感じられる環境をつくることは、子どもの命と尊厳を守るための大切な土台だと思います。

学校は「小さな社会」

こうした環境や社会を考えるうえで、学校という場所はとても重要です。

学校は、「小さな社会」と言われます。
子どもたちは学校で、単に教科の知識を学んでいるわけではありません。自分と違う考えの人がいること、自分の考えを言葉にすること、人の話を聴くこと、話し合い、時には折り合いをつけることを学びます。

教育基本法も、教育の目的として、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画する態度を養うことを掲げています。学校は、将来社会に参加するための準備をする場所でもあるのです。だからこそ、学校でどのような経験をするかは重要です。

しかし、学校現場で、子どもたちの声は十分尊重されてきたといえるでしょうか。
「子どもに選択肢を与えています」と言われることがありますが、実際には、大人があらかじめ決めたとても狭い枠の中で、「AとBのどちらにしますか」と選ばせているだけ、ほんの少し関与させているだけ、ということも少なくありません。

本当に社会に参加するというのは、与えられた選択肢から一つを選ぶことだけではありません。

 「そもそも、なぜAとBしかないのか」
 「Cという方法はないのか」
 「このルールそのものを変えることはできないのか」

と問い、そのルールや枠組みをつくる過程にも参加できることが重要です。

学校に安全や秩序のためのルールが必要なのは当然ですし、すべてを子どもだけで決めればよいという話でもありません。

しかし、何もかも大人が決め、子どもはその範囲内でだけ選ぶという経験を積み重ねれば、「社会のルールとは誰かが決めるもので、自分たちは従う側なのだ」と学んでしまいます。

学校が本当に「小さな社会」であるなら、子ども自身がその社会の一員として、意見を述べ、話し合い、決定過程に関わることのできる環境が必要だと思います。

こども家庭庁も、子どもが自分の意見を十分に聴かれ、自分の声によって社会に何らかの変化をもたらす経験は、自己肯定感や自己有用感、社会の一員としての主体性を高め、ひいては民主主義の担い手を育てることにつながるとしています。

また、文部科学省も、「主体的・対話的で深い学び」や「個別最適な学び」「協働的な学び」を掲げ、子ども一人ひとりの声を聴き、違いを前提に対話する教育を実現しようとしています。

しかし、そのようなことは、例えば、小学校低学年の児童30~35人を教員一人で見ながら可能でしょうか。本当にそれを実現しようとするなら、それにふさわしい児童の人数や教員配置についての現実的な設計を考える必要があると思います。

大人にも子どもにも必要な「セルフアドボカシー」

さらに重要なこととして、私たち大人自身がまた、子どもの頃に十分に声を尊重されて育ってきたとは言えないことがあります。

 「黙って聞きなさい」
 「先生の言うことを聞きなさい」
 「決まったことだから仕方がない」

そう言われ続ける中で、自分の考えを伝えたり、相手と意見が違うときに話し合ったり、対話によって合意をつくったりする経験を、私たちはどれほどしてきたでしょうか。

多くの大人が、対話による合意形成を苦手としたり、「お上」や上司、専門家が決めたことに従うほうを選びがちだったりすることも、子ども時代のこうした経験と、どこかつながっているのではないでしょうか。

子どもの声を尊重する社会をつくるためには、まず私たち大人自身が、「自分も声を尊重されずに育ってきたのかもしれない」と気づくことが必要だと思います。

「セルフアドボカシー」という言葉をご存じでしょうか。障害のある人の権利運動では、かつて「本人には分からないから、家族や専門家が本人のために決める」という考え方に対して、当事者自身が声を上げ、意思決定に参加しようとするセルフアドボカシーの運動が広がってきました。

本人以外の誰かが「あなたのため」と言って決めてしまう構造に対して、当事者自身が意思決定に参加するために発展してきた考え方で、自分の思いや希望、困っていること、必要な支援などを、自分の言葉や自分に合った方法で伝え、必要に応じて環境を変えるよう働きかけていくことを言います。

現在では、教育、医療、福祉などの分野でも、本人が自分のニーズ、希望、権利を理解し、それを伝え、意思決定に関わる力という意味で使われています。

 自分の意見を持つこと。
 相手に伝えること。
 相手の意見も聴くこと。
 違いがあれば話し合い、折り合えるところを探すこと。

こうした力は、民主的な社会を成り立たせる基礎です。そして、子どもに求める前に、私たち大人自身も学び直す必要があるのだと思います。

子どもの「セルフアドボカシー」を大切にすると同時に、子どもの声を受け止める大人の側も、こうした力を学び直していくことが大切です。

脱「子どものくせに」社会へ

かつて「女のくせに」という言葉が当たり前だった時代から、女性の声を社会の意思決定に反映させる方向へ、私たちは長い時間をかけて社会を変えてきました。子どもの権利についても、今まさに同じような変化が始まっているように思います。

子どもの声を尊重する社会をつくることは、子どものためだけではありません。家庭でも、学校でも、職場でも、地域でも、相手を一段下に置かず、互いの声を聴き、対話し、合意をつくる社会へ変わっていくことにつながります。

脱「子どものくせに」社会へと歩みを進めること――それは、子どもの権利を保障するための一歩であると同時に、私たち大人自身が、よりよい社会のつくり方を学び直す一歩となるように思います。

(2026.8.11加筆)